侍の収入は米が基準
基本的にどこかの大名や旗本に仕官している侍の収入は米になります。
テレビドラマなどに出てくる浪人は収入源はありません。
遊んでプラプラしている浪人なんてまずいません。
食べられるわけないのです。
仕官している侍はよく言われるのが200石取りとか100俵扶持とか米を基本にした言い方になるわけです。
ただ200石と言われる人は200石全部が自分の収入になるわけではありません。
こういった人は200石分の知行地を国元に設定されそこの年貢の取れ高から収入を得ます。
4公6民とかしたら4割が入ってくるので自分の取り分は80石と言う事になります。
またその年の米の不作、豊作により米の値段が変わります。
たくさん米が取れれば自分の取り分も増えるかもしれませんが米の値段も下がるので収入は同じかもしれません、
100俵扶持と言われる人は100俵そのままもらえます。
ただ豊作だから余分にもらえると言う事はありません。
しかし、豊作不作で米の値段は変わりますから米の値段が豊作で下がった年は実質賃金が下がる可能性が高いです。
また米の支払いは個人ではなく家に対して支払われます。
江戸時代の初めにあなたの家は200石ですよと言われた場合、その大名の家臣団に組み込まれ仕事があってもなくても200石で当家か大名家がなくなるまで続くのです。
そう明治維新まで続きました。
出世して役料がつく場合もあります。
その役料は個人給で1代限りに付きでもともとの基本給が200石と言う事になります。
大名家の石高は決まっていてそれを家臣団に分けているわけですからほとんどの取れ高は分け与えてしまっているはずです。
ですから余っている分などあるはずがないのです。
結局どこかの家が絶家でもしない限りほかの大名家を頸になった侍を雇い仕官させるなどと言う事は出来ません。
どうしてもある人を外部から雇う必要が出てきた場合は今あるどこかの家の養子に入ってもらうか他の家臣団の地行を少しづつ削らさせてもらうかです。
知行高を削るなどよっぽどの理由がない限り、それは家臣団が承知しません。
山本周五郎の「雨あがる」では子供を国元に残し仕官の口探しの旅に夫婦して出たという話ですが普通に考えたらまず仕官の口はありません。
自分が仕官していた時のことを考えればおのずとわかると思うのですが。
しかも紀伊徳川家の分家であった吉宗に仕えてましたが3代後の意次の時代に2万5千石の大名になりました。
こういったのは例外中の例外で田沼家そのものがラッキーと才能の開花両方に恵まれていたとしか言えません。
ただその幸運と才能の開花による出世と引き換えに世間の嫉妬、恨みは非常に強く歴史的悪人というレッテルを張られてしまいました。
正直悪人だけでは出世できません。
米を使った石高による給料制度は毎年毎年入ってくる米を給料とすることで安定した制度ともいえるのですが反面米の出来不出来に左右される不安定な面も抱えていました。
何年も先までの米を担保にして金を借りると言う事も武家の社会では一般化していき借金が膨大に膨れ上がってしまい、歯止めが利かない状況に陥る武士もたくさん出始めました。
こんなことって町人の世界ではとうていできないのです。
毎年安定的に入る米などという収入は町人にはないのです。
ですから、町人の世界の給料は貨幣制度を利用してます。
田沼意次はあの時代、米の石高制に代わる収入、給料制を作ろうとしましたがうまくいきませんでした。
それは貨幣制度を厳密にコントロールし調整するまでの能力と貨幣造幣力に欠けていたからともいえます。
せいぜい町人の世界に流れる貨幣をコントロールするぐらいの力しかなかったのです。
もし田沼意次が現代のマクロ経済学などを知っていたら今の日本はもっと発展した世界になっていたような気がします。
参勤交代がもたらしたもの
Wikipediaによると参勤交代は「寛永12年(1635年)に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化され、諸大名は一年おきに江戸と自領を行き来しなければならない」と書かれています。
最近の映画では「超高速参勤交代」、NHKドラマになった浅田次郎の「一路」が有名です。
「超高速参勤交代」は八代将軍吉宗の時、「一路」は十四代将軍家茂の時と時代はズレてますが自分の国の領地から江戸まで家臣を連れて参勤するのはとても大変なことでした。
最初の幕府の考えとしては諸大名を一年おきに江戸と自領を行き来させ徳川将軍家に対する軍役奉仕させたといいますが戦争がなくなった時代それぞれの大
名の参勤交代は「格のメンツ」に拘った参勤交代になっていったと思われます。
江戸幕府でさえ家康、秀忠と一生懸命貯めこんだ幕府の財産も三代将軍家光の時代にはも江戸城の天守閣を何回も建てたり、日光東照宮を造営したり、そして島原の乱などで浪費してしまい明暦の大火後は火事で焼けてしまった江戸城天守の再建も出来ないくらいつかってしまったのです。
家光には財政意識というものは乏しかった後思います。
幕府の官僚たちは地方の外様大名に金を使わせることを意識していたかもしれませんが大名たちにとっては他の大名に行列の立派さで負けたくないという意識の方が勝ち費用をかけた大名行列になっていったのだと思います。
幕府は最初の考えとは違い各大名は出来るだけお金を使わないように努力するようお触れを出したとも言います。
特に八代将軍吉宗以降幕府の考えは倹約、倹約でしたから大名行列の「格式争い」など喜ばなかったと思います。
その参勤交代による大名行列は幕末近くまで行われました。
その参勤交代制度は日本の国にいくつかのメリットをもたらしました。
それを、歴史の教科書では取り上げてないと思います。
そこの所は冷静に取り上げるべきです。
1:日本全国津々浦々の街道が整備された。
日本には300からの大名がいます。
その大名が江戸まで参勤交代するのですから街道は自然と整備されます。
交通インフラの整備です。
2:各宿場にお金が投資された。
当然、大名が宿泊する宿場町には本陣が作られ、商店、駅が整備された。
足りない労働力を確保するため地元の労働力も使われた。
大名行列の経費が全国的にばらまかれたといえるでしょう。
3:通信連絡網の整備。
飛脚の全国的整備が進んだ。
国元に帰る武士たちが都会の情報を地方にもたらした。
4:地方の物産を江戸や大阪の都会に運ぶルートができた。
運送業も発達した。
造船、海運業の発展。
5:ものが都会に集中するルートができた。
人も物も都会に集まるようになって来た。
飢饉のときに難民が都会に行きやすくなった。
百万都市江戸を作る原因となった。
6:地方にも都会の文化が伝わった。
国元に帰る武士、中間たちが江戸の文化をお土産に持ち帰った。
7:為替制度が発達し日本全体の経済の均一性が進んだ。
明治以降の銀行制度の土台となる制度ができていた。
8:江戸の人口の男女比率が極端に男性が多くなった。
遊郭の発展。
8はメリットとは言えませんが吉原に落ちるお金は莫大で経済を支える一助となったのは確かかもしれません。
どうでしょうか参勤交代による交通インフラの整備が日本全体に経済的発展をもたらしたのは間違いありません。
残念ながら当時の技術では基金を封じ込めることはできませんでしたが、地方で食えなくなった難民が都会に働きに出やすくなったのも確かです。
飛脚制度の発達は当然全国的な情報網の整備にほかなりません。
地方の知識人はみな江戸の出来事など知っていたし、アヘン戦争なども知っていました。
こういった先進的ちょんまげ国家のきっかけを作ったのが参勤交代制度ともいえると思います。
江戸時代のお金事情
江戸時代のドラマを見ててわからないまま流しているのがお金の事情だと思います。
江戸時代の貨幣は金貨(小判、大判)銀貨(1分銀、2分銀)銅貨(銭)それに銀の塊(小粒銀)などを使っています。
銀の塊などは関西を中心に使われ量った重さによって銀1貫何匁とか言った使われ方をします。
高田郁さんの「銀二貫」という作品の題名は銀二貫という金額で子供の命を買ったというところから話が始まるところから来ています。
江戸中心の時代劇ばかり見ているとこの銀二貫という金額は小判にするとどれくらいといううことは解りません。
調べてみると銀一貫は銀1000匁で、金との交換額は60匁で1両だそうです。
すると銀一貫は約16.7両になります。
「銀二貫という金額で子供の命を買った」と言う事は金貨にすれば33.3両で子供の命を買ったと言う事になります。
また銭というのは銅貨ですがこれも1両が4,000文から6000文と時代によって変化をします。
江戸時代はこのように地域によって主に通用する通貨が違ったり、各金貨、銀貨、銅貨の交換比率が変化したりするため両替商という商売が必要になってきました。
一般庶民は1貫などという銀を小判に両替すると言う事はほとんどありませんが10匁の銀を約700文前後の銭(銅貨)に交換すると言う事はあるわけで素人では簡単に計算すると言う事は出来ませんでした。
日本の商売人の計算能力の高さが、いわゆる和算という日本式数学を進歩させ明治以降の日本の科学の発展の基礎を支えたのは確かなことだと思います。
テレビドラマのほとんどは主に金貨計算の通貨の話で終わってしまいます。
しかし、その金貨計算のシステムでさえ主に4進法という計算の仕方を取っているものですから1両2分とか言われてもふ~~ん??という風になってしまいます。
つまり1両は4分、1分銀4枚、2分銀2枚です。
1分は4朱、1朱銀4枚、銭1000枚(文)+です。
1朱は250文。
江戸では銀貨なのに1分銀とか小判中心のほぼ固定比率で使っています。
重さではありません。
ほぼというのは複雑怪奇なことに小判という金貨でさえその作られた年代と金の含有量で銀や銅への交換比率が違うのです。
我々は現在人ですから現在のお金にするといくらという考えも出てきます。
現在のお金にするとという考えは比較する基準を何にするかで変わってきてしまいますし、よく使われる米の値段という数字も江戸時代は凶作、不作、並作、豊作で米の値段が変化するのです。
大名家などに仕えている武士はたいてい米を基準に給料をもらいます。
例えば200石取りの家とかです。
これもその年の米の豊作不作でお金への交換比率が変わります。
つまり年収が変化するのです。
それに金銀銅の交換比率がなんらかの事情で変わるとしたら本当に複雑怪奇の世界になってしまいます。
テレビドラマでこの複雑怪奇なお金の世界を説明していると、それだけで物語は終わってしますでしょうからお金に関しては小判を基準にした江戸的基本システム押し通して複雑なことには触らぬよう物語を進めているということで解釈してください。
ただ町人ドラマ、商人ドラマだったらこの基本的な仕組みを抑えてると物語はもっと面白いですよ。
江戸の水事情
山本一力の小説に「あかね空」「道三掘りのさくら」という小説があります。
「あかね空」は2002年に直木賞を取りました。
「道三掘りのさくら」は2005年の作品です。
わたしは「あかね空」の方は読んでないのですが映画は見ました。
この「あかね空」「道三掘りのさくら」に共通したテーマみたいなものがあって、それが”水”なんです。
「あかね空」はお豆腐屋さんの話です。
そして「道三掘りのさくら」のほうは水売りやさんの話なのです。
この2つの小説の舞台は両方とも本所、深川近辺になります。
富岡八幡宮とかお話の中に出てきます。
気になったのはかたや深川の豆腐屋さんの話です。
そしてかたや江戸城の堀に繋がる道三掘りにある「吐き樋」と呼ばれる水道の余り水を吐き出す場所から樽に水を汲んで深川一帯に売り歩く水売りの話です。
当時の江戸には神田上水や多摩川の上流から江戸まで水を引いた玉川上水とかがあって飲み水を確保するために世界に誇る上水道というものがあったのです。
この上の絵の女性のように井戸から汲んでいる水は各長屋や家にひかれた水道の水と言う事になります。
ただし、大川(隅田川)の西側ではと言う事なのです。
残念ながら現在の墨田川よりずっと広い大川を超えるだけの水道橋を作る技術は当時ありませんでした。
ですから大川を越えた深川一帯に公儀が作った水道はなかったのです。
神田川を超える水道の橋はありました。
それが今の水道橋の語源になっています。
しかし、深川一帯はほとんどが大川の湿地帯を埋め立てた埋立地なものですから井戸を掘っても出てくるのは塩水でまともな飲み水が出る井戸はほとんどなかったと言われています。
ですから深川の長屋にある井戸の水は洗濯などに使い、飲み水は水売りから買ったというのが「道三掘りのさくら」の話しなのです。
ただ「あかね空」のお豆腐屋さんは深川です。
深川で美味しい井戸水に出会えたというのが話の始まりですからなにか違和感を感じるのですよ。
やっぱり映画ではなくて小説を読んでみないと比較はできないでしょうか。
同じ作者ですからその違いをどう説明するか改めて確認したいと思います。
えぇ~深川に美味しい水なんてあるのですか?って。
江戸の治安を守るのが同心
江戸の治安を守るのが同心。
十手をもって、犯罪者を取り締まって、岡っ引きを使って捕り物をして着流しで町の中を歩いている。
これって定廻り同心の格好、イメージですから。
奉行所は南町奉行所(今の有楽町の当たり)と北町奉行所(今の東京駅の当たり)の二つがあって同心が120人ずつ計240人います。
それが月番で月ごとに交代で当番を交換して仕事にあたります。
今月が南町奉行所が担当なら北町奉行所は来月にというわけなのです。
つまりどちらかは現場に出てこないので常に120人で仕事を処理しなければなりません。
驚くべきことがあります。
担当の同心は月ごとに120人ですが、その中で現代でいう警察官担当である同心は定廻り同心、隠密廻り同心、臨時廻り同心の3種類の同心にあたり、それぞれの定員が定廻り6人、隠密廻り2人、臨時廻り2人なのです。
どうですか?
計10人ですよ。
120人のうち10人が警察担当の同心なのです。
この10人で北は板橋、西は新宿、南は品川、東は今の荒川まで担当するのです。
江戸の町は江戸時代初期は確かに人口が少なかったですが元禄期以降はどんどん増えて当時世界を見渡してもなかなかあり得ない100万都市を形成していましたから、たった10人の警察官が治安を守ると言う事がいかに困難なことであったかと想像できるのです。
それゆえ、各同心は配下に手先、目明し、岡っ引き。手下と言われる人たちを使わないと仕事をするなどと言う事は到底無理なわけです。
テレビで出てくる着流しに背中に十手を注してさっそうと歩くという同心というのはこの10人の同心のことを言うので、それ以外の同心の働くときの姿は地味な羽織袴姿で普通の大名家に勤める下級武士と何ら変わりません。
十手なども持ち歩きません。
給料はだれも同じで30俵2人扶持で、これは年収です。
また同心は武士ではありません。
武士と町人の間、卒という身分になります。
ただし、定廻り、隠密廻り、臨時廻りの3廻りと言われる人たちは街中を直接見回りをするので、いわゆる付け届けと言う現在では禁止されている賄賂ともいえる別収入があります。
当時としてはこれは悪とはみなされませんでした。
現在ではこのような付け届けと言われるものは犯罪とみなされ公務員は厳しくなっていますが、現在の倫理観で当時を見るといろいろおかしなことになります。
歴史を勉強すると言う事は時代ごとの倫理観も理解しないとその当時の善悪が正しく評価できません。
小説を読んだり、ドラマを見ても現代の倫理観でシナリオが描かれるとおかしいと気が付いて初めて時代劇が面白くなるのです。
江戸時代は面白い、その当時の人の倫理観を理解するともっと面白い。
江戸の屋台の蕎麦屋はすごい
時代劇が好きです。
本当は歴史はなんでも好きなのですが、時代劇というと小説やドラマに絡んで面白味が深まります。
テレビドラマを見ていると江戸の町人は良く蕎麦(ソバ)を食べます。
二八と書いてある蕎麦屋です。
二八とはよく見かけるのですが江戸時代のほとんどの期間蕎麦の代金は16文だったと言われています。
江戸時代270年近く物価の変動はかなりあったはずなのですが、ず~っと16文だったそうです。
これは結構すごいことだと思うのですが江戸時代の物価の変動を知らないから、そんなものかと流してしまいます。
蕎麦は江戸っ子の基準飯だったのでしょう。
二八と名前を付けた以上、意地でも二×八=16文を守るというのが江戸の蕎麦屋の粋だったのでしょう。
二八にはもう一つの説があります。
蕎麦粉が8割、小麦粉が2割、それで二八蕎麦と言う。
話としてはもっともな気もしますが蕎麦粉10割の十割蕎麦もありますから比率が語源というのは完璧な説ではありません。
両方ひっかけたとしても二×八=16文の方は譲れないところでしょう。
でも考えてみれば屋台の蕎麦屋さんはすごいですよ。
屋台を担ぐにせよ、引くにせよ、非常に重いです。
汁や、陶器のどんぶりや、火鉢や現代のように軽くコンパクトと言う分けにはいきませんから。
蕎麦そのものだって専門の蕎麦打ち屋さんに作ってもらい仕入れるのでしょうか、それとも自分で朝のうちに作って持って出るのでしょうか、両方だと思いますが朝早くから働かないとうまくいきません。
それに江戸時代の人って日本の歴史の中で比較的小さいのですよね。
そういった人たち、軽トラなどない時代の人たちが人力で運び販売するのです。
江戸時代のファーストフード屋台の蕎麦屋、改めて江戸時代の屋台の蕎麦屋さんはすごいと言わせてください。