江戸がおもしろい!

時代劇が好きです。時代劇ドラマを見てあれ????時代劇小説を読んでフ~~ン。歴史雑学を知ればドラマも小説ももっと面白い

東洋のベニスは江戸でしょう

江戸の町は徳川家康が入る前は利根川、荒川が江戸湾に流れ込む河口で水量の多く、時として川幅もわからなくなるくらい広い湿地帯でした。

 

徳川家康豊臣秀吉に対する意地もあったのでしょうが秀吉に入れと言われた江戸城を中心に人も住めないような場所を大都会へと作り替えていったのです。

 

家康にとって秀吉が生きている限り秀吉が指示した江戸城以外に居城を構えるという選択肢はなかったのです。

 

家康は徳川幕府というものを考える以前から大大名としての徳川家が支配する領地(255万石)を管理するには、支配する領地にふさわしい城下町が必要と考えたはずです。

 

そのためにはいかにも江戸城は小さすぎる。

また江戸城を囲む城下町も自分の家臣団の屋敷を作るためには土地の広さとして小さすぎるのです。

 

そのため家康は大規模なインフラ投資をしました。

まずは自分たちの家臣団を使って駿河台の台地を削り江戸城の前の湿地帯の埋め立てを始めたのです。

 

最初は単純に自分たちの住む家の場所を確保するためだったのでしょうが、それから利根川と鬼怒川の合体工事を行い、利根川のルートを変え、江戸の湿地帯の水量の絶対量を減らし、洪水を減らし、埋め立てしやすく、人の住む場所を広げていくという大インフラ工事を行ったのです。

 

徳川幕府が発足し江戸城は将軍の居城であると同時に全国を統治する幕府の中心の建物になったのです。

そのために江戸城の規模は巨大化し、各諸大名も家屋敷が必要になり、江戸の町自体も拡大する必要に迫られたのです。

 

江戸の町をたびたび困らせた水の存在も建物を作り待ちを拡大するためには便利な面もありました。

 

それは関東北部で切り出した材木をイカダにし荒川、利根川を使い江戸に運ぶことができたのです。

 

そういった水を利用するという考え方が定着すると江戸の町づくりの考え方の中にも、これまでとは逆に水を利用することができる都会という考え方が出来上がっていったのだと思うのです。

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江戸の町の地図を見ると江戸城、大川、江戸湾この3つを結ぶ無数の水路を見ることができます。

 

例えば名前に「川」というのがついてますが実際は人の手が入った水路。

 

日本橋川亀島川、楓川、京橋川、新川、新堀川、三十間掘川、神田川、堅川、横川、小名木川、源森川、北十間川、十間川、南十間川

 

「堀」の名前が付いていて人の手で作られた水路。

山谷掘、三味線堀、仙台堀、六間堀、五間堀、

 

それに

神田上水堀

江戸城外堀、道三堀、

これらの水路がほとんどすべて水運のルートとして使われたのです。

江戸時代でいう現代のタクシーは辻籠でしたが、現代の地下鉄や山手線にあたるのが猪牙船(ちょきぶね)で堀、川、江戸湾を使って江戸の町を移動することが可能でした。

 

タクシーのように使える猪牙船、荷物運びの荷足舟、水樽を運ぶ水船駿河湾でとれた海産物を1日で江戸に送る押送船。

雨でも平気で持ち込みでレストラン代わり、内緒の話に屋根船、非常に大きな観光船の屋形船。

 

いろいろな地方からの物産は船でどんどん江戸に送られ、江戸の町の主な米蔵や酒蔵や魚市場はほとんど水路に沿って建てられました。

 

百万都市の江戸と数万人規模のベネチアとを比べるのもおこがましいのですが水路を使った水運網、交通網はベネチア以上の規模で”水の都江戸”は江戸である故にふさわしい名前だと思います。