時ソバがわかる人は時代劇通だね~~・
有名な落語で時蕎麦という話があります。
ある晩のことです。
屋台のソバ屋が営業しているところに、やけにおしゃべりな客が訪れます。
客は店主にしっぽくソバを注文し食べる間中何かしゃべっています。
変える段になり料金はいくらだと問いかけ、16文だと言われると、細かいから手を出しな店主に言います。
店主が手を出すと「十六文だったな?ひー、ふうー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー、何刻(なんどき)だい?」
「エー、ここのつ(九刻)で。」
「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六・・・じゃ、あばよー。」
男は立ち去りました。
店主に「九つ」といわせ1文、ごまかした計算になります。
それを見ていた男がしゃべり続けた男に感心していたのですが。
そのまねをしている間に1文ごまかしたのに気が付きます。
すると、その男はおもしろがって自分も真似してみようという気になって実際やってみるのですが「十六文だったな?ひー、ふうー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー、何刻だい?」
「へー、四刻(よつ)で。」
「いつ、むー、なな、やー、ここのつ・・・」と見事失敗してしまいます。
個々の違いが分かるでしょうか?
最初の男が店主に聞いた時刻は「九つ」です。
真似をした男が店主に聞いた時間は「四つ」です。
この時間の違いが判るでしょうか午前0時、昼の12時は九つです。
そこから八つ(おやつの八つです。2時)、七つ(お江戸日本橋七つ立ちの七つで4時)、六つ(6時)、五つ(8時)、四つ(10時)と来て、また九つに戻ります。
現代の時間と数字が会うのは六つの6時だけです。
時ソバの場合最初の人が食べた時間は晩の九つと言っていますが実際は夜の0時という時間です。
それで真似をした人が食べたのが夜の10時と言う事になります。
現代の時間でいうと2時間の違いですが九つと四つという言い方ですから現代人から見るとずいぶん離れた時間のように思えてしまいます。
江戸時代の時間的概念が頭に入っていて感覚的に考えられる人は「時ソバ」という話非常に面白いのですが、たいていの現代人はなぜ面白いのかわからないまま笑っているというのが本当だと思いまあす。
なお江戸時代の
一刻(いっとき) ーー> 2時間
半刻(はんとき) --> 1時間
四半刻(しはんとき)-->30分
後、子丑寅宇辰巳馬未申鳥戌亥の12支で24時間を表すのと両方覚えれば完璧です。
ただ勘違いしやすいのは子の刻は0時から2時ではなく23時から1時までの2時間だと言う事です。
寅の刻は4時から6時ではなく3時から5時だと言う事です。
小説の場合は五つ刻は8時だという注釈が付くでしょう。
しかしテレビドラマではそんな説明は入りません。
テレビを見る時にこの時間概念が身に着いていると非常に面白いのです。
それは同じドラマ同じ小説を読んでいても他の人と完全に違う世界を楽しめるということなのです。
ただですね、時ソバを聴いてまた新たな疑問が出てきてしまいました。
1)町内の木戸は夜の4つでしまってしまいます。
2)しっぽくソバおそらく16文では食べられない。
3)16文はかけソバ
こんなことに気がついてしまいました。
町内ごとの木戸が閉まっても移動は可能ですが、メンドクサイですし、岡っ引きなどの夜回りと出くわすと止められてすぐには開放してしてくれそうもないと言う自体になる可能性があります。
お奉行の家はどこにある?
TBS 大岡越前
村上源次郎:大坂志郎
村上源次郎:高橋長英
ずっと昔にTBSで大岡越前をやっていて私の母親は時代劇だ大好きで水戸黄門、大岡越前と交互によく見ていました。
それが2013年になって東山紀之主演で、TBSではなくNHKから放送されると聞いた時は最初はさほど驚かなかったのですが、実際見てみるとすごく驚きました。
なぜならタイトルの題字・主題歌・音楽がTBS時代と全く同じで、アレンジはしてありましたが中に出てくる人の名前や立場も全く同じで作られたからです。
ただいつも見ていて気になることがありました。
ドラマではいつも出てくる大岡越前の家(役宅)です。
奥さんの雪絵さんがいて、着替えしたり、そこから町中に出かけたり。
奉行所(仕事場)、役宅(自宅)と必ずドラマの中に出てきます。
大岡忠相(遠山の金さん)も家(屋敷)から仕事場(奉行所)まで毎日通勤するのだろうか。
大岡忠相はどれくらいの所に家(屋敷)があって出勤するのに何分ぐらいかかるのだろうかなんて考えたことありませんか?
なぜそんなこと考えるようになったかというとドラマの中で出てくる南町奉行同心・村上源次郎さんが原因です。
やけに頻繁に大岡忠相の屋敷に来ていますよね。
なんか多すぎませんか?
家に帰ってるのに、そこまで仕事の話を持ってくるのですか?
NHK BSプレミアムの方の大岡越前の中に出てくる南町奉行同心・村上源次郎は大岡忠相が伊勢山田奉行についているころからの部下だったと言う事になっているようです。
南町奉行同心仕事は1代限りとは言えだいたい同心の株を持った家が継ぐものですから世襲だったり、婿を取ったりして新規の家の同心はほとんどいないはずです。
大岡忠相の家臣だった人が奉行所に勤める場合大岡忠相の秘書官、補佐官として働く内与力という立場の人がいます。
内与力ははっきりと奉行の家臣で奉行が職を辞するとともに奉行所を去ります。
他の与力や、同心は奉行が変わってもそのままで移動しません。
南町奉行同心・村上源次郎さんはどのような同心なのだろうかと大岡忠相のプライベートなところによく頻繁に出入りするなとか気になっていました。
そしたらTBSの大岡越前の中の南町奉行同心・村上源次郎は最初からずーっと定廻り同心なのだそうです。
TBSとNHKでその辺を変えたそうなのですが、今度は定廻り同心はあんなに頻繁に奉行の家に行くほど暇ではないし身分が低すぎるでしょう。
ついでに定廻り同心にしては年配だ。
またまた気になって仕方がないという羽目になりました。
ある時、歴史の本を読んでいると驚きました。
北町、南町奉行の役宅は奉行所の中にあると書いてあるではないですか。
テレビで御白州のある奉行所と仕事を終えて着替えをする役宅は同じ場所だったのです。
北町奉行所の見取り図がありました。
表門を入ると正面は北町奉行所の仕事場で仕事用の部屋がたくさん並んでいます。
正面玄関を入り右に進み左に曲がって進むと左側に大きな御用部屋(奉行の仕事部屋)があります。
その部屋をぐるっと回りこむように奥に進むと小さな中庭かなと思える場所があって廊下の突き当りは侍詰め所その部屋を通り過ぎると自宅というようになっていると思われます。
ただし奥さんとか女性たちはそちら側(仕事部屋側)からは出入りしなかったようで奉行所の表玄関とは反対側の奥まったところに女性が出入りするための奥玄関があります。
そこは働いている女性たちが暮らす女部屋が並んでいて女部屋に囲まれた玄関です。
大岡忠相の奥さんの雪絵さんもそこから出入りしてたものと考えますが男の人が出入りする玄関ではありませんのでプライベートで大岡家を訪れた武士は表玄関と奥玄関の中間に内玄関というものがありますからそこから出入りしていたものと考えます。
そこは奉行の御用部屋に近く、自宅の部分に入るには侍詰め所を通って入るものと思われます。
南町奉行同心・村上源次郎が頻繁に大岡忠相の自宅を訪れるのは簡単なことでした。
ただそれが解った後も同心の身分で大岡忠相のプライベートに頻繁に尋ねるのはまずいでしょと思います。
同心が御奉行に何か話がある場合は内与力か年番与力(一番格が上の与力)を通すのがその当時の筋です。
大岡越前のドラマ、TBSもNHKも与力の人がほとんど出てこないというのがいつも気になることでした。
同心というのはかなり身分の低い立場なのです。
武士ではないのですから。
大岡忠相くらいの旗本が同心の娘と結婚するなんてまずありえません。
(最初の話ではそのような話の流れでした。)
もうちょっと現実を意識したドラマ作りをしていただきたいな~~。
江戸時代の人は1日5合の米を食べる?
江戸時代の人は1日5合の米を食べると書いている人がいます。
またヤフーの知恵袋にも江戸時代の人は、そんなにたくさんの米を食べるのですかという質問も上がっていました。
う~~ん 間違いです。
ではなぜ1日5合の米を食べるという話が出てきたのでしょう。
それは江戸時代の武家の家の給料制度から来ています。
いわゆる旗本の家などで雇っている一番下のクラスの武士の給料が年3両1人扶持であることから来ています。
町のやくざが武士とけんかする時に「このサンピンが~~!!」と怒鳴るときの「サンピン」です。
3両1人扶持で3・1でサンピン。
「貧乏侍が~~!!」
最下層の武士を表しているのですが、これはず~っと3両1人扶持が固定的な最低給料のようです。
問題はここでいう1人扶持です。
1人扶持とは男(武士)の1年分の食い扶持のことを表します。
その時に1日当たり5合を食べるとして、×360日分=1石8斗を支給したと言う事が「江戸時代の人は1日5合の米を食べる。」という発想のもとになっているのです。
しかしですね、1石という米の量が何を意味しているかというと1人の大人が1年間に食べる米の量を表しているのです。
つまり豊臣秀吉の太閤検地からそうなっているので1石8斗というのは1石分が1年間の食べる量で8斗分が手当ないしは扶養家族分と考えられます。
つまり1石を360日で割ると2.8合と言う事になります。
3食どんぶり飯2杯なら考えられますが、実際はどうでしょう。
中にはやっぱり1日5合食べるではないかという人もいると思いますが、正直、武士が年3両の現金では暮らせません。
家族持ちならなおさらです。
3両という金額は奉行所などの小者、中間などと同じ給料だそうで1人扶持、1日5合の米を全部食べてしまったのでは武士としての生活が成り立たなくなってしまいます。
8代将軍吉宗以来倹約!倹約!と号令がかけられ、勤番武士(勤めている武士)は一汁一菜など倹約生活を強いられましたが、下級の勤番武士の世界では言われなくても一汁一菜の生活になっていたようです。
当時の大工職人の日当は500文を超えるとも言われています。
すると8日で1両、月にすると4両ぐらいの収入があります。
1年だと48両です。
雨の日もあるでしょうからそれの7掛けでも30両は越えます。
このように下級勤番武士は町人の中の上レベルの大工職人などに収入ですごく差を付けられています。
ですから各大名屋敷の中屋敷や下屋敷などで働く下級勤番武士たちは屋敷の長屋などで一緒に傘張りの内職なんかやったりしているのです。
そうしないと江戸では生活できないのです。
佐伯泰英「酔いどれ小籐次」シリーズ「品川の騒ぎ―酔いどれ小籐次留書 青雲篇 (幻冬舎時代小説文庫)」、この辺を読むと貧乏大名の下屋敷に勤める下級武士の生活というものが書いてあります。
1日5合食べても構わないというか可能ではありますが、下級武士は少しでも食べる米を減らして現金に回さないと生活できないと思います。
またこの1人扶持が女性の場合(これは奥さんの扶養手当みたいなもの)ですが5合ではなく3合だそうです。
江戸時代の人は1日5合の米を食べる?という質問には「おそらく食べない」。
5合という数字の根拠が下級勤番武士の給与の計算基準値から来ているので実際に食べる数字とは関係ないからです。
またこの数字には町人の生活はかかわっていませんから江戸時代の人と大雑把にいうわけにはいかないのです。
ただ5合食べて悪いと言う事はないし、相撲取りなんかはおそらく食べただろうと思いますが下級武士の1人扶持の給与が根拠とはいえ下級武士でさえそんなに食べたら生活できないというのが本当の所だと思います。
大家さんは長屋の持ち主ではない
江戸の町をめぐる物語にはたくさんの大家さんが出てきます。
佐伯泰英「居眠り磐音 江戸双紙」の金兵衛さん。
畠山健二「本所おけら長屋」の徳兵衛さん
宮部みゆき「ぼんくら」も徳兵衛さん
落語でも「大家と言えば親も同然。」と江戸のお話でいたるところに出てくるのが大家さんです。
その大家さんですが長屋の端あるいは向かいに住んでいて、長屋の住人の世話を焼いたり、家賃を取ったり長屋全体の管理業務を行っているのです。
が、長屋の持ち主ではありません。
一般庶民が住んでいる長屋の持ち主はたいていの場合表通りの大店が持っている場合が多いです。
多いというのは例外もありますから。
例えば南町奉行所でさえ江戸の町の1等地に土地を所有しており土地を貸したりしてい
ますし、町方同心や与力が自分の家の敷地に貸家を建て貸していたりします。
話を戻すと大家さんは家主さんとも言われますが現代の家主さんは江戸時代の家持さんと言う事になります。
大家さんは家持さんから長屋や貸家の管理を任され家賃の徴収などもしますが、自分はたいていの場合、無賃で大家用の家に住んでます。
一般の九尺二間という長屋よりず~っと広いところに住んでいますが管理人の給料はもらっている人ともらっていない人と両方あるようです。
たとえ家持さんから給料を貰っていても平均して3両2分だそうで家族がいればそれで食べられる額ではないでしょう。
ですが、大家さんにはそれを上回る副収入がある場合が多いのです。
それは長屋から出る人糞(糞尿)やゴミです。
長屋の便所に貯まる糞尿は江戸近郊から百姓たちがわざわざ買いに来るのです。
ゴミもそうです。
誰かが引越しをしたり夜逃げしたりした時、そこから出る廃棄物はゴミの回収業者に売ってその代金は大家さんのものになります。
糞尿の買取料金も大家さんの副収入になります。
また大家さんは同じ町内の大家さんたちと組んで5人組というものを作り、そのリーダーを月行事(がちぎょうじ)と言ったそうです。
5人組の大家さんたちは、まだまだ仕事があります。
大家さんたちが住んでいる町内には皆で作った自身番という現代でいう交番兼ミニ公民館があるのですが、そこに交代で詰めることになっています。
ですから大家さんは常に長屋にいるわけではありません。
逆に自身番で町内の管理の仕事をしている時の方が多いと思います。
そこには自分の長屋のもめごとばかりではなく町内のほかの長屋のもめごとも持ち込まれ必要な場合事件の当事者に付き添って奉行所に行かなければならないのです。
それはいわゆる町役人(ちょうやくにん)としての仕事なのです。
大家さんはそういった町役人の仕事をするのですがそれ用の給金はありません。
しかし、いわゆる町内の大店の家主さんたちから季節ごとののご苦労さん賃とか町内に出入りの業者からの付け届けとか、事務作業をした時の手数料とか、それなりの副収入はあったようです。
自身番ですが大家さんたちの共同オフィスで懲戒で雇った書役という速記や書類の清書が一緒に詰めています。
また自身番そのものを管理する人(老人など)がいて、そういった人が子供に飴を売ったりするのは認められていたようです。
ここでは大家さんは長屋の持ち主ではないし、長屋にいつもいるわけではないし、町役人の仕事もあるし。よぼよぼの老人ではなかなか務まらないと言う事でした。
東洋のベニスは江戸でしょう
江戸の町は徳川家康が入る前は利根川、荒川が江戸湾に流れ込む河口で水量の多く、時として川幅もわからなくなるくらい広い湿地帯でした。
徳川家康は豊臣秀吉に対する意地もあったのでしょうが秀吉に入れと言われた江戸城を中心に人も住めないような場所を大都会へと作り替えていったのです。
家康にとって秀吉が生きている限り秀吉が指示した江戸城以外に居城を構えるという選択肢はなかったのです。
家康は徳川幕府というものを考える以前から大大名としての徳川家が支配する領地(255万石)を管理するには、支配する領地にふさわしい城下町が必要と考えたはずです。
そのためにはいかにも江戸城は小さすぎる。
また江戸城を囲む城下町も自分の家臣団の屋敷を作るためには土地の広さとして小さすぎるのです。
そのため家康は大規模なインフラ投資をしました。
まずは自分たちの家臣団を使って駿河台の台地を削り江戸城の前の湿地帯の埋め立てを始めたのです。
最初は単純に自分たちの住む家の場所を確保するためだったのでしょうが、それから利根川と鬼怒川の合体工事を行い、利根川のルートを変え、江戸の湿地帯の水量の絶対量を減らし、洪水を減らし、埋め立てしやすく、人の住む場所を広げていくという大インフラ工事を行ったのです。
徳川幕府が発足し江戸城は将軍の居城であると同時に全国を統治する幕府の中心の建物になったのです。
そのために江戸城の規模は巨大化し、各諸大名も家屋敷が必要になり、江戸の町自体も拡大する必要に迫られたのです。
江戸の町をたびたび困らせた水の存在も建物を作り待ちを拡大するためには便利な面もありました。
それは関東北部で切り出した材木をイカダにし荒川、利根川を使い江戸に運ぶことができたのです。
そういった水を利用するという考え方が定着すると江戸の町づくりの考え方の中にも、これまでとは逆に水を利用することができる都会という考え方が出来上がっていったのだと思うのです。
江戸の町の地図を見ると江戸城、大川、江戸湾この3つを結ぶ無数の水路を見ることができます。
例えば名前に「川」というのがついてますが実際は人の手が入った水路。
日本橋川、亀島川、楓川、京橋川、新川、新堀川、三十間掘川、神田川、堅川、横川、小名木川、源森川、北十間川、十間川、南十間川
「堀」の名前が付いていて人の手で作られた水路。
山谷掘、三味線堀、仙台堀、六間堀、五間堀、
それに
神田上水堀
江戸城外堀、道三堀、
これらの水路がほとんどすべて水運のルートとして使われたのです。
江戸時代でいう現代のタクシーは辻籠でしたが、現代の地下鉄や山手線にあたるのが猪牙船(ちょきぶね)で堀、川、江戸湾を使って江戸の町を移動することが可能でした。
タクシーのように使える猪牙船、荷物運びの荷足舟、水樽を運ぶ水船、駿河湾でとれた海産物を1日で江戸に送る押送船。
雨でも平気で持ち込みでレストラン代わり、内緒の話に屋根船、非常に大きな観光船の屋形船。
いろいろな地方からの物産は船でどんどん江戸に送られ、江戸の町の主な米蔵や酒蔵や魚市場はほとんど水路に沿って建てられました。
百万都市の江戸と数万人規模のベネチアとを比べるのもおこがましいのですが水路を使った水運網、交通網はベネチア以上の規模で”水の都江戸”は江戸である故にふさわしい名前だと思います。
テレビではわからない江戸時代の女性の姿
江戸時代の女性の普段の姿は現在のテレビあるいは映画では全く分かりません。
現代の我々が時代劇を見た場合、違和感を抱かないようにいろいろな場面で現代風にアレンジしているのです。
男の人についても言えるかもしれませんが特に女性のファッション、いで立ちなどかなりの部分で江戸時代とは違う格好をしています。
この女性の場合着物の丈が足首の所までですが手を見てください、これは着物を摘まんでいるのです。
決して前で手を合わせているのではありません。
女性がちょっと外に出る時の姿です。
現代の着物姿は着物の裾が花嫁衣装や芸者さん、舞妓さんではない限り足首までしかありません。
テレビの中の江戸時代の女性たちもそれに合わせて(現代に合わせて)丈の短い着物を着ています。
しかも着こなし方まで現代風です。
上の絵の女性が摘まんでいる手を離したら着物が垂れて足全体が隠れる長さになります。
足首までの短い着物を着ているのはせいぜい百姓の女か、下女とか動きの激しい職業の人くらいで、おそらく小間物売りの女性でさえ一見短く見える着物は大体たくし上げて帯に挟んでいるというのが本当の所だと思います。
浮世絵をよく見ると江戸の女性たちは家の中では着物の裾が畳に擦れて歩いています。
足先は着物の裾が左右に割れそこから覗いています。
そして色っぽいことに中に来ている襦袢、下着が見えています。
一見だらしないように見えますがこれが江戸時代の女性の着物の着こなしなのです。
花見の浮世絵の中に出てくる女性たちも同じです。
外ですから裾が汚れないようたくし上げて歩いています。
テレビドラマや映画ではなぜ最初から短い現代風にしてしまうのでしょう。
現代の着物の着こなしは礼服から来ているという人もいます。
つまりキチンとしすぎて堅苦しい訳です。
エンドタイトルには時代考証の担当さんの名前(学者さんだったりして)がたいてい出ていますが担当さんは気にならないのでしょうか。
もう一つ現代人と江戸時代の女性ファッションの違いは「鉄漿(オハグロ)」です。
結婚して奥さんになった女性は鉄漿をするはずです。
専業主婦ならまずそうなるでしょう。
眉も剃る。
テレビドラマ「仁」の中のお母さんは着物や鉄漿はダメでしたが眉だけは剃っていたような気がします。
現在放映している「立花登青春手控え2」の中のお母さん(宮崎美子)は長い着物、鉄漿、眉剃りどれもしていません。
あと吉原の花魁は眉は剃らないけど鉄漿はしています。
吉原の花魁と遊ぶときは疑似結婚という形をとるものだから鉄漿をするのです。
なにせ江戸時代の女性ファッションは現代の着物よりはるかに色っぽく、ファッショナブルで下着見せファッションだったのです。
胸元ももっとゆったりと現代の着こなしよりもっと緩やかで楽な着こなし方だったはずです。
誰か監督さん!!もっと江戸時代の女性に迫った時代考証に沿ったドラマや映画を撮りませんかね。
現代は長い着物を着ずに鉄漿もしないけど、映画やドラマの中の江戸時代ではちゃんとその恰好をしている、その姿も見慣れれば江戸時代ももっと理解しやすくなるのではないでしょうか。
江戸時代は刑務所はなかった。
江戸時代刑務所はなかったというと今テレビでやっているやつは牢屋がでてくるじゃないと言われそうです。
現在(2017年5月)NHKでBS時代劇「立花登青春手控え2」というものを放映されています。
藤沢周平の「獄医立花登手控え」が原作であって2016年にシリーズ1が放映されました。
主人公は東北の商藩出身の若い医者で江戸で医師をしているおじさんを頼って江戸に出てきたものの、小伝馬町の牢獄の当番医を押し付けられて牢の中の囚人たちとのやり取りから事件を解決したり成長してゆくというお話なのです。
つまりそこには牢屋があり囚人と呼ばれる人たちがいるわけで、そこは現代でいう刑務所と同じと思っている人もたくさんいるのではないかと思います。
しかし、そう思い込んでいる人には残念なのですが、小伝馬町の牢に入っている人のほとんどは未決囚、つまりまだ刑を言い渡されていない人なのです。
刑を言い渡されると小伝馬町の牢からは出ていきます。
小伝馬町の牢屋敷は牢奉行である石出帯刀が代々管理していて名前も世襲していきますからいつの時代でも石出帯刀さんが奉行さんです。
では今の刑務所にあたるものは何でしょう。
どこにあるのでしょうか。
それは聞いたことがありません。
つまりないのです。
武士の場合、永蟄居というものがあり自宅が無期限の刑務所のようなものになったりしますが町人の場合刑務所にあたるものはありません。
簡単にいうと江戸時代の刑罰は
1:死刑
2:遠島
3:追放
4:罰金
5:敲き
6:謹慎、預かり
このようなもので刑務所にずっと入れておいて監禁しておくという制度がないのです。
人を殺してしまっても情状酌量になり死刑にならなければ遠島になる。
島での生活も牢屋に入るわけではなく自給自足の生活をするということでかなりの自由だったようです。
ただ佐渡送りだけは別です。
金山堀りの労働力にされてしまいますから、大変だったと思います。
鬼平犯科帳で有名な鬼の平蔵、長谷川平蔵は実在の人ですが彼が江戸石川島に作ったのが加役方人足寄場と言われるものでこれも刑務所的なものではありません。
これは地方から江戸に流れてきた無宿者や軽犯罪を犯した犯罪予備軍に職業訓練をしようという施設です。
火付け盗賊改め方の長官として鬼の平蔵と言われた人は世界初と言われる犯罪防止プログラムを作った超頭のいい先駆者だったのです。
話がそれましたが江戸処払いと言っても江戸以外で普通に暮らしていいわけですから実質、江戸時代の刑罰は「死刑」か「遠島」と考えて間違いないと思います。
殺人は死刑
10両盗んだり、詐欺をしたら死刑です。
W不倫は死刑
放火も死刑。
現代より死刑がめちゃくちゃ多いわけですが、南町と北町のお奉行様が独断で死刑を言い渡すわけではありません。
死刑を言い渡すためには老中の許可、将軍の印が必要なのだそうです。
つまり御白州で背中の桜吹雪を見せて市中引き回しの上獄門に処するというような宣言は無しよ。
NHKでBS時代劇「立花登青春手控え2」を見る時は牢屋の中の未決囚と若手牢医師の話だと思ってみてください。
未決囚だからこそ刑が確定する前にまだ何かやれることがあるのではないかという話なのです。