江戸時代の人は1日5合の米を食べる?
江戸時代の人は1日5合の米を食べると書いている人がいます。
またヤフーの知恵袋にも江戸時代の人は、そんなにたくさんの米を食べるのですかという質問も上がっていました。
う~~ん 間違いです。
ではなぜ1日5合の米を食べるという話が出てきたのでしょう。
それは江戸時代の武家の家の給料制度から来ています。
いわゆる旗本の家などで雇っている一番下のクラスの武士の給料が年3両1人扶持であることから来ています。
町のやくざが武士とけんかする時に「このサンピンが~~!!」と怒鳴るときの「サンピン」です。
3両1人扶持で3・1でサンピン。
「貧乏侍が~~!!」
最下層の武士を表しているのですが、これはず~っと3両1人扶持が固定的な最低給料のようです。
問題はここでいう1人扶持です。
1人扶持とは男(武士)の1年分の食い扶持のことを表します。
その時に1日当たり5合を食べるとして、×360日分=1石8斗を支給したと言う事が「江戸時代の人は1日5合の米を食べる。」という発想のもとになっているのです。
しかしですね、1石という米の量が何を意味しているかというと1人の大人が1年間に食べる米の量を表しているのです。
つまり豊臣秀吉の太閤検地からそうなっているので1石8斗というのは1石分が1年間の食べる量で8斗分が手当ないしは扶養家族分と考えられます。
つまり1石を360日で割ると2.8合と言う事になります。
3食どんぶり飯2杯なら考えられますが、実際はどうでしょう。
中にはやっぱり1日5合食べるではないかという人もいると思いますが、正直、武士が年3両の現金では暮らせません。
家族持ちならなおさらです。
3両という金額は奉行所などの小者、中間などと同じ給料だそうで1人扶持、1日5合の米を全部食べてしまったのでは武士としての生活が成り立たなくなってしまいます。
8代将軍吉宗以来倹約!倹約!と号令がかけられ、勤番武士(勤めている武士)は一汁一菜など倹約生活を強いられましたが、下級の勤番武士の世界では言われなくても一汁一菜の生活になっていたようです。
当時の大工職人の日当は500文を超えるとも言われています。
すると8日で1両、月にすると4両ぐらいの収入があります。
1年だと48両です。
雨の日もあるでしょうからそれの7掛けでも30両は越えます。
このように下級勤番武士は町人の中の上レベルの大工職人などに収入ですごく差を付けられています。
ですから各大名屋敷の中屋敷や下屋敷などで働く下級勤番武士たちは屋敷の長屋などで一緒に傘張りの内職なんかやったりしているのです。
そうしないと江戸では生活できないのです。
佐伯泰英「酔いどれ小籐次」シリーズ「品川の騒ぎ―酔いどれ小籐次留書 青雲篇 (幻冬舎時代小説文庫)」、この辺を読むと貧乏大名の下屋敷に勤める下級武士の生活というものが書いてあります。
1日5合食べても構わないというか可能ではありますが、下級武士は少しでも食べる米を減らして現金に回さないと生活できないと思います。
またこの1人扶持が女性の場合(これは奥さんの扶養手当みたいなもの)ですが5合ではなく3合だそうです。
江戸時代の人は1日5合の米を食べる?という質問には「おそらく食べない」。
5合という数字の根拠が下級勤番武士の給与の計算基準値から来ているので実際に食べる数字とは関係ないからです。
またこの数字には町人の生活はかかわっていませんから江戸時代の人と大雑把にいうわけにはいかないのです。
ただ5合食べて悪いと言う事はないし、相撲取りなんかはおそらく食べただろうと思いますが下級武士の1人扶持の給与が根拠とはいえ下級武士でさえそんなに食べたら生活できないというのが本当の所だと思います。